3月7日③
- 1月15日
- 読了時間: 4分
倫理観の欠片もない師匠(仮称)をなんとか言いくるめ、無事に異世界デビュー果たした私。憑依系とはいえ異世界転生、無条件に輝けるチャンス――そう浮かれていられたのも束の間、師匠(仮称)に部屋を追い出されてしまった。自分自身の名前も、魔術の使い方も分からない――何者でもない、何も持っていない存在のまま、私は第二の人生を歩もうとしている。
* * * * * *
狭い廊下は薄暗く、心なしかじめじめしている。魔術を使えないものかと試行錯誤していた私だったが、おそらく3分も経っていないであろううちに諦めてしまい、再び木製の扉にもたれかかった。扉の向こうでは、師匠(仮称)と呼ぶことにしたRPGの魔法職みたいな老人が、よく分からない作業を続けていることだろう。
どこへ向かっていいか分からず途方に暮れた私は、正面にある窓の向こうへぼんやりと視線を向ける。異世界らしい景色でも広がっていないかと期待したが、立ち並ぶ木々に遮られ、遠景が全く見えない。分かるのは、小雨が降っていることと、立ち並ぶ木々に異世界らしさが全く窺えないことくらいだ。
「……元の世界と全っ然変わんないじゃん。もうちょっと妖しい配色でも良くない? こう、幹とかもうねうねしてたりさぁ……」
誰にともなく毒づけば、私の傍らでふわふわと浮いていたリンゴ型の生物が、体全体を斜めに傾けた。言葉は理解できる様子だったが、私が「異世界」に対して勝手に抱いていたイメージは、理解の外にあるらしい。
私が黙ると、この場は静寂に支配される。雨が弱いせいか、建物の防音性が高いのか、雨音すら聞こえない。静かな空間は決して嫌いじゃないはずなのに、ここが勝手の分からない世界であるというだけで、不安と孤独感に駆り立てられる。
異世界転生って、当事者的にはこんなに不穏なものなんだ。
「……あのさぁ」
耐えきれなくなった私は、リンゴ型の生物に顔を向ける。ガイコツみたいな顔と視線が合った――気がする。
「おまえ、鳴き声すら出さないね。鳴いたり喋ったりしない生き物なの?」
私の問いかけに、リンゴ型の生物は一瞬だけ顔を下に向け、頷いてみせた。意思の疎通は図れるものの、音声を発することはないらしい。
「ん~……なるほどね~。え~……? じゃあ、おまえの名前もわかんねぇじゃん……」
私は無意識のうちに、軽く握った片手を口元に添えていた。考え込むときの癖。憑依転生前の名残だ。
「……元々この子がつけた名前とか、あるかもしれないもんな? 勝手な名前で呼ぶの、ちょっと気が引けるんだよなぁ……。でも、呼び名が無いのも不便っていうね……」
ぶつぶつと独り言を漏らす私を、大きくくりぬかれた穴みたいな目が静かに射抜いている。
「……いいや。私は適当にあだ名をつけるだけ、ってことにするね」
私はリンゴ型の生物に、びし、と人差し指を向けて言葉を続ける。
「そういうわけで、今からおまえのこと、りんご(仮称)って呼ぶわ!」
りんご(仮称)。あまりにも捻りの無いそのあだ名に、りんご(仮称)は一瞬動きを止めたかと思うと、ふいっと顔を背けてしまった。
お気に召さなかったらしい。
「ごめんて! ネーミングセンスの欠片も無いの! 響きは可愛いから許して!」
慌てて声をかければ、りんご(仮称)は緩慢な動作で顔をこちらに向ける。感情の読み取りやすい顔をしていたら、きっと恨めしそうな目をしていたことだろう。
「えーっとぉ……それより、この子の部屋とか知ってる?」
なんだか気まずくなった私は、慌てて話題を逸らす。りんご(仮称)は少しの間、こちらを見つめたまま微動だにしなかったが、ほどなくして小さく頷いてくれた。
「おっ。じゃあ、案内してくれない? ……勝手に入るの、この子には申し訳ないけどさぁ」
何か思うところがあるのか、りんご(仮称)は逡巡するように少し顔を伏せてしまった。りんご(仮称)というあだ名がそんなに気に入らなかったのだろうか。あっぷる、の方がいいだろうか。それとも、あぽー……いやいや、さすがに響きが間抜けすぎるか。
代案を考えようと必死に思考を巡らせていると、不意に目の前をりんご(仮称)が横切った。
「! ま、待って! もうちょいマシなあだ名考えるから――」
置いていかないで! 私がそう叫ぶより先に、りんご(仮称)はこちらへ振り向き、不思議そうに体を傾けた。
「……あぇ? 私を置き去りにしようとしたわけじゃない……?」
間の抜けた声を漏らす私の前で、りんご(仮称)は一瞬廊下の先へ体を向け、すぐにまた私の方へ向き直った。
おまえが案内しろと言ったんじゃないか――そんな抗議をしているように見えた。
「お……? ……もしかして、案内してくれる気になったの?」
驚いて立て続けに質問すると、りんご(仮称)は大きく頷いてくれた。
「マジ!? 助かるぅ……!」
こいつは間違いなく味方だ、この世界で唯一信頼できる相棒になるだろう――そんな身勝手な期待を胸に、私はこの世界へ来て初めて屈託なく笑うことができた。
「ありがとうな、りんご(仮称)! それじゃ、よろしく!」
思わず手を差し出した手は、華麗にスルーされてしまった。
その小さな羽でちょっと触ってくれるとか、それくらいのことはあっても良くないだろうか。